岩見沢は今年、開庁140年、市制施行80周年を迎えます。これを記念し、岩見沢のこれまでのあゆみや岩見沢に関わりの深い人、出来事などを紹介します。
■第8回 炭鉱と鉄道
明治15年に幌内鉄道(手宮-幌内間)、明治25年に室蘭線(岩見沢-輪西間)、大正3年に万字線(志文-万字炭山間)が開業し、岩見沢は空知各地から小樽や室蘭の港へ石炭を輸送する中継地として発展しました。万字線の開通を機に市内でも石炭の採掘が本格化し、朝日・美流渡・万字地域は、鉱夫と家族らが暮らす炭鉱のまちとして賑にぎわいました。炭鉱や出炭量が増え、扱う貨車が増加すると、大正15年、大和町に操車場が設けられ、昭和36年には取り扱う車両が一日2千両まで拡大しました。同時期には、一日あたり2万人以上が岩見沢駅で乗降し、駅前には飲食店やデパートが建ち、多くの人々が行き交いました。
しかし、石油の需要や安価な海外炭に押され、石炭は昭和41年前後をピークに減産へ向かいます。岩見沢の炭鉱では存続に向けた努力が続きましたが、昭和44年の北星炭鉱閉山を契機に、昭和49年に朝日炭鉱、昭和51年に万字炭鉱が閉山し、平成元年の伊藤炭鉱閉山ですべての炭鉱が操業を終えました。炭鉱の閉山は鉄道にも影響を及ぼし、昭和60年に万字線、昭和62年に幌内線が廃線となり、操車場も廃止されました。一方、昭和49年には国道12号バイパス、昭和58年には札幌-岩見沢間の高速道路が開通するなど、陸上の交通手段は鉄道から自動車へ転換していきました。
現在の鉄道は広域的な人の移動や物流を支える手段として、また環境面からも期待が寄せられています。平成21年に完成した岩見沢複合駅舎は、駅としての機能だけでなく、人々が集まる交流拠点としての役割を担っています。
石炭産業と鉄道の歴史と遺構は、地域振興や観光への活用が試みられ、地域を特徴づけるものとして、その文化とともに引き継がれています。