岩見沢は今年、開庁140年、市制施行80周年を迎えます。これを記念し、岩見沢のこれまでのあゆみや岩見沢に関わりの深い人、出来事などを紹介します。
■第4回初代栗沢村長 山田勢太郎(せいたろう)
山田勢太郎は、慶應3年6月、紀伊国(きいのくに)和歌山出口中ノ通(現和歌山市)で、寺社奉行(じしゃぶぎょう)山田甚之丞(じんのじょう)の長男として誕生。10代で父母と死別し、弟妹と共に義兄の岡道亮(おかみちすけ)宅に身を寄せました。県立師範学校を卒業後、県下の小学校で教職に就きましたが、明治23年に渡道して義兄と共同で幌向村幌向川左岸(現栗沢町北斗)に30万坪の岡山農場を開きました。明治25年に栗沢村が誕生し、同42年の一級町村制の施行により初代村長に選ばれました。
二宮尊徳の〝報徳(ほうとく)〟の教えを農場経営に取り入れ、それを村政においても重んじ、その出発点に青年指導を置くとともに不測の出費に備えて倹約貯蓄を奨励し、村長自ら市街地各戸を巡回集金して貯蓄と納税観念の普及に努めました。また、山林ほか基本財産の造成や自作農の創設、丘陵地農業経営の振興、農家には共同作業や畜産を奨励するほか、農繁期に託児所も開設しました。話術が巧妙でユーモアがあり、冠婚葬祭などの会合では〝おやぢ〟が来たと喜ばれ、紛糾した議論も和やかに終わるなど、その人柄から大正11年、北海道町村長会創立と同時に会長に選ばれ、また大正5年から昭和3年までは道会議員も務めました。
昭和5年には自治功労者として宮中観桜会に招待され、その功績が称えられますが、翌年6月に逝去。昭和10年6月1日、栗沢村役場前庭での勢太郎の銅像除幕式では、遺族をはじめ村民ら4,000人余が、フロックコートに愛用のステッキ姿の厳かな立像を仰ぎ見たそうです。立場や世代を超え人の和をもって助け合う報徳精神は、今も栗沢地域に引き継がれています。